裁判所に行った次の日から、特捜部の取り調べが始まった。
逮捕から勾留期限満期の23日間一息の休みすらなく毎日取り調べが行われた。
取り調べ時間はゆうに300時間を超えていたと思う。
弁護士面会が入ると、その間だけ取り調べは中止される。
弁護士からは何とか踏ん張れと言われるが、
頑張りますと答えながらも、時間も天気もわからない取り調べ室という密室の中では、私の魂はものすごい力で徐々に握り潰されていくだけだった。
会社はどうなっているのか。
私は、ただ唯一会社のことが知りたかった。
私の家族がこれを読むことはないと思うが、私は人生の全てを会社に掛けていた。
会社の危機と家族の危機が同時に訪れたら自分は必ず会社を取ると常に心に誓い、社員の人生を一時でも背負う責任を感じながら働いていた。
だから、とにかく何でもいいからいまの会社について知りたかったし、社員の顔を見たかった。
ある日の弁護士面会で、こんな話を聞かされた。
「罪状を認めない限り、接見禁止を解かれる可能性は少ない」と。
「接見禁止の一部解除は出来ると思う。ただし親族まで。会社関係者の接見禁止は最後まで残るだろう」と。
この話を聞いたその後の記憶が無い。
私が次に思い出せるのは、取り調べ室で止まらない涙を検察官に差し出されるティッシュで拭いながら、嗚咽しながら自白する自分の姿だ。
検察官の態度が突然軟化しだした。
あれだけ私の話を否定し、証拠を突き付け、故意故意悪意悪意架空架空と連呼していた口から、私への労わりや気遣いの言葉が出てきた。
自分が惨めで余計に涙が止まらない。
でも、私は人生を捧げた会社の存在を消してまで闘う気持ちが起きなかった。
もう、立ち上がることができない。
全てを捨てていいんじゃないかと思った。
全てを捨てて全てを受け入れてこれで終わりにしようと思った。
その後に続いた取り調べは、恐ろしいことに和気藹々とした雰囲気に包まれる。
私は、検察官の身の変わり様を冷めた目で見ながら適当に微笑み適当に相槌を打って、早く時間が過ぎて行くことを願うばかりだった。
取り調べの最終日に印象に残っていることがある。
「これで最後になるが、最後に反省の弁を聞こうか。」
検察に対してというより、国家に対して、ということらしい。
私は出来るだけ丁寧な言葉で謝罪反省の旨、償いについて綴った。
ところが、目の前に向かう口から出たのは
「何か開き直ってない?」
最後の最後で、私は腹が立った。
地の底から怒りが湧いてきた。
「私は心から謝罪の言葉を述べました。私の全ての思いを口に出してお伝えしました。
でも、検事にとってはこれが当に足りないものであるなら、検事がこれは聞くに耐えうる充分な謝罪の弁であるというお手本をお持ちなのだと思います。
どうか、未熟な私にここで教えて頂けませんか。お願いします。」
腹から声を出し頭を下げて乞うてみた。
頭を上げて正面を見据えた私の顔は、きっと腹を据えた人間の凄みがあったのだろう。
検察官の目は泳いでいた。
こんな姿を見たのは初めてだった。
「私はこの約一カ月ほぼ全ての時間を貴女と費やし、貴女のことが充分理解できたと考えています。私は、貴女の謝罪の言葉は、今の貴女の精一杯だと認めますのでこれで終わりにしましょう。」
翌日からは何も無い。
朝起きて、朝食を食べて、昼食を食べて、夕食を食べる。寝る。
数日続いた。
時折呼び出されて調室に行くと、初見の検察庁の職員(凄みが違うので検察官ではなく職員とすぐわかる)から、逮捕の記録として指紋を取られたり、または弁護士面会だったり。
弁護士は、私の意向を大切に汲んでくれた。
では量刑を頑張って争いましょう!と。
私は、もう何でも良いよ終わるんだからと覇気のない声で、はい、と答えていた。
ある日の午前、東京地検から起訴状が書面剥き出しのまま居室に届く。
私は起訴され、この時より被告となった。