人生は楽しい事と辛く悲しい事のどちらが多いかといえば、辛く悲しいことの方が多い。
人生は楽園なんかではなく、修行だ。
そう思えば気が楽になる。
食事だって、今はもはや娯楽や快楽の中のひとつでしかないと思っている。
栄養素は食事でなくともサプリメントで必要充分摂取できるし食事が病に直結することもない。
競馬が好き映画鑑賞が好きと同じレベルで当然の限度を持ちながら食事は楽しむものだと思う。
もちろん独りで映画を楽しむことが好きな人もいる訳で食事は独りだって構わない。
一昔前は金が無ければできない事も多くあったが、今はそれとてカーシェアで高級車に乗る事ができ格安航空で海外旅行が可能だ。
QOL(生活の質)は金銭の壁を越えた。
私が小学生の頃に盛んに先生や保護者が私たち児童に向かって叫んでいた言葉がある。
ひとりはみんなのために
みんなはひとりのために
今さらながら、この言葉は戦時中の
欲しがりません
勝つまでは
のような呪文だと思っている。
繰り返し繰り返し耳にすることで、脳内に刷り込まれていく。
持ち物を忘れれば連帯責任で班の全員が拭き掃除をやらされるとか、あなたがミスをすれば仲間に迷惑がかかるという叱咤とか。
恐怖政治で統括されて成長すると間違いは起こさないが、先陣切ってリスクを取って何かを起こすことを嫌がる大人になる。
そして暗黙のルールを破った人失敗をした人やはみ出した人を下衆として非難する大人になる。
はみ出し者を抹殺する閉鎖的な空間は、私はまるで檻の中で飼われている犬の狂気の殺し合いのようだと思っている。
目を凝らしてよく見てみると良い。
あると思っていた檻なんて、実はない。
自分であると思っているだけ想像上に作り出しているだけだ。
檻がないと分かった犬は走り出しどこまでも広い平原を駆け抜け、自由に餌を捉え気の合う仲間と群れて生きていく。
生き物の本来の姿だ。
だから、人間も同じで良いと私は思っている。
みんな自由に生きれば良い。
他人のことではなく自分のことに関心を向けよ。
他人の心地良さでは無く自分の心地良さを追求せよ。
親だって子だって他人だ。
年齢で人間の価値が決まるものでもない。
聖職なんてものも存在しない。
それぞれが個人を尊重して自由に生きるのが一番幸せだし、同じ価値観を持つ人同士で励まし合い助け合っていかれる世の中ならば良いのにと思う。
他人のために自分が犠牲になる必要もないしその犠牲を恩着せがましく訴えることは無意味だ。
自分が居心地が良いと思える土地で根を張ることができたら幸いである。
ただし、自由というのは与えられるものでない。
求めなければ自由は与えられない。
そして自由には責任が伴う。
残念ながらこのようなことを考えるための教育が日本ではされていない。
だからみんな気付かない。
気付かないまま実は存在しない狭い空想上の檻の中でお互いを監視しあって生きている。
自由を奪い責任を押し付け合っている。
終わりのない椅子取りゲームみたいに。
私は、椅子取りゲームが大嫌いだ。